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分类:新撰组
姓名:冲田总司
原名:冲田宗次郎
生辰:1842年7月8日
民族:大和
祭日:1868年5月30日
籍贯:江户
地区:京都
国家:日本
职业:新撰组一番队长副长助勤剑术指导
总司的活动年谱:
1842年7月8日
出生冲田胜次郎之嫡男,幼名宗次郎。
1852年 10岁
进入天然理心流拜于近藤周助门下。
1855年 13岁
白河藩脱藩。
1862年 20岁
以新撰组剑术教练兼一番队队长远近驰名
1864年 22岁
池田屋事件,与近藤勇、永仓新八一同杀入敌阵但却在此一役中吐血昏倒,从此以后便开始与病魔缠斗。
1868年5月30日 26岁
在千驮谷的植木屋平五郎宅中,梦到一只黑猫,在梦中将此黑猫予以斩杀,此事后不久冲田也因病撒手人寰,一代剑豪就此结束了他的一生。
冲田总司(一番队长)
冲田总司,名房良,天保十三年(1842)或十五年(1844)生于武藏国,其父冲田胜次郎是陆奥国白河藩阿部能登守的家臣。胜次郎身体很弱,年纪轻轻就去世了,而总司的养父井上林太郎也无故脱藩,去了远方。幼年失怙的总司,在八岁的时候,进入一家名为“试卫馆”的乡下道场,学习天然理心流剑术。
还有一种说法,这些身份来历,都是总司成年以后,自己编造的。他只是一个弃婴,被试卫馆馆主近藤周作收养了而已。但不管怎样,周作的养子近藤勇和弟子土方岁三,象父亲又象兄长一般把总司养大,却是大家都承认的事实。总司对这两人的爱和崇敬,直接引导他走完短暂但辉煌的人生历程。
总司相貌清秀,很有人缘,但他却不靠这点,或者靠自己深得新馆主近藤勇的疼爱,确定自己在道场中的地位。他苦练剑术,不到十九岁,就获得了天然理心流的免许皆传(即已经有自己开门授徒的资格了)。据说他擅长使用“突”技(而这正是天然理心流剑法的最大特色所在,还记得《风火英雄》中,对于总司独创“三段刺”的描写吗),近藤勇一直认为他是本门下代掌门的最佳人选。
有一个传说,近藤勇有一个养女,经常到道场里来帮助洗涤和打扫。经过长时间的接触,他爱上了总司,并终于鼓起勇气向心上人告白。然而遗憾的是,总司只是冷淡地回答说:“我还在修行中……”。遭到拒绝的姑娘,在痛苦和羞愧之下,竟然引刀割喉自杀。还好抢救及时,保住了性命,不久就被父母强迫嫁了人……真是一段凄美的爱情故事啊。姑娘不明白,总司已经决定把他的一切,都献给剑道修行,和对养育之爱的还报了吧。
文久三年(1863),幕府招募浪士队,维护京都治安,试卫馆全员在近藤和土方的带领下前去报名。因为种种原因,最后浪士队的计划取消了,但在京都守护职松平容保的策划下,新撰组却诞生了。
新撰组成立初期,共设三位局长理事,除近藤勇外,还有芹泽鸭和新见锦。芹泽强横暴躁,给新撰组带来了很不好的影响,可是后台太硬,又无法循正常渠道扳倒他。无奈之下,近藤一党决定采取断然行动(据说,是总司最早提出的建议)--当年九月十三日夜,京都风雨大作,近藤、土方、冲田等五人突然杀入岛原地方某料亭,将正与情人幽会的芹泽斩杀。芹泽是神道无念流的高手,却在狭窄的根本无法达成合围的居室中,被轻易砍倒,从此没人再敢轻视天然理心流是乡下剑法了吧。
此后不久,新见锦也因事故引咎切腹,近藤勇成为唯一局长,试卫馆成员实际掌控了新撰组的主导权。总司成为一番组长、副长助勤,并兼击剑示范。据说他非常喜欢小孩,在京都的时候,经常利用处理队务的间隙,和壬生寺(新撰组屯所)附近的孩子们玩耍。那时候,他不过才二十岁,也许还保有着天真的童心吧,或者是为了补偿孤独童年所遗留的寂寞感……
这种纯真的心性,只为了所热爱的人和门派而奋斗,虽然厌恶却并不畏惧使双手沾满鲜血……因此和月伸宏才会在《浪客剑心》中塑造“天剑”濑田宗次郎的形象吧--那形象的来源,不就是纵横京都时候的冲田总司吗?
元治元年(1864)六月五日夜,三十余名攘夷志士集合于京都一间名为池田屋的小旅馆,商议打倒幕府的计划。因为情报泄漏,新撰组全体集合于八坂神社,由局长近藤亲自带队,奇袭池田屋。这是使新撰组得以名扬天下的战斗,总司手舞爱刀“乞食清光”,冲锋在前。虽然志士中不乏剑道高手,却无人能在他的面前走上三个回合。当场便有七名志士倒在血泊之中,丢了性命--其中包括著名的长州尊王思想家吉田稔磨、肥后志士松田重助和熊本藩兵学教师宫部鼎藏--其余的,都做了俘虏。
恶斗结束,满身都是敌人鲜血的总司,却无缘无故地倒下了。经诊断,他得了在当时算是不治之症的肺结核病。从此,剧烈的咳嗽、呕血和越来越虚弱,就伴随着这位美少年剑士,一步步走向永恒的死亡(同样精于剑术,却因为肺痨而英年早逝的美少年,还有德川幕府初期的田宫坊太郎,这是真正的巧合呢?还是传说所造成的巧合呢?)。
流动的天下局势,并不因为新撰组的努力,而改变其前进方向。幕府势力逐步衰退,倒幕诸藩联合起来,终于掀起了戊辰战争。幕府军放弃京都,向江户方向收缩防线,而新撰组也随同一起向江户撤退。
总司没有逃往江户,他就留在京都附近,和抚养他长大的他的父亲、他的兄长,永远告别了。他是从去年年底开始,病情突然恶化的。不久以后,就被送到乡下千太谷的植木屋平五郎家中静养,在这个山明水秀的地方,度过了一生的最后时光。
伏见·鸟羽战役,幕军全面溃败,而新撰组干部们惊世骇俗的剑术,也根本无法阻挡肩扛火枪的新政府军的前进步伐。最终,近藤勇在甲府战败后,弃械投降,于庆应四年(1868)四月,被判处斩首之刑。土方岁三率领新撰组残部北上虾夷地,于明治二年(1869)新政府军进攻五稜郭的时候,自杀性冲阵,被乱枪击毙。
近藤的死讯,在一个月后传到了总司的耳中。他回想自己的一生,他的一生都在为天然理心流而努力,为新撰组而战斗,为了他的父亲同时也是他的兄长--近藤和土方--得以驰骋于乱世中,而不懈地挥刀斩杀。现在,近藤死了,土方率领残部北上,也势不能持久,新撰组已经完成了它的历史使命,它应该终结了,那么自己的生命呢?自己生命的存在还有什么意义?
五月三十日,冲田总司房良在植木屋的家中,一个人静静地死去了。死后,他被追封为贤光院仁誉明道居士,葬在东京都的专称寺。
冲田总司之死
原文:子母泽宽 新撰组三部作之新撰组物语
新撰组一番队队长兼助勤冲田总司曾经在千驮谷池桥尻那里植木屋平五郎家的客舍中隐居。这地方就在现在新宿御苑附近。庆应四年(1868年)农历5月30日,总司在客舍中过世,时年25岁。房东平五郎常常出入当地旗本(幕府官员)家中,能领取到一些赏赐的大米,过着宽裕的生活。
总司死前三天,精神突然好起来。那天中午刚过,他意外地走出屋子到庭院里四处看看。总司的姐姐阿光和姐夫冲田林太郎留在御支配的庄园内,身边只有一个婆子照顾。她看到他这个样子,心里不住地担心,但也说不出什么道理来。
那天天气很好。空中传来蝉鸣声。身高一丈(175M)肩膀宽宽的总司穿着白底的单衣,摇摇晃晃地走到院子里。那里种着不少植物。其中一株梅树粗大的根系旁,横趴这一只黑猫。
总司问:“阿婆,你看到那只猫了吗?看上去很讨厌。是你家养的猫吗?”得到否定的回答后,总司说:“我去拿刀来,把那只猫杀了吧。”他回到屋里,从床上的枕头底下拿出一个黑色的刀鞘,抽出刀,握着刀柄,悄悄接近黑猫。在离猫还有两尺远的时候,现在我们已经没法知道猫的动作了,只知道它轻盈地跳开逃走了。婆子看到总司嘴唇发紫,脸颊和眼睛充血,呼哧呼哧地喘着气。他说:“阿婆,没砍到--我没能砍死那只猫哟!”然后他无可奈何地回客舍去了。
第二天仍然是好天气。和昨天差不多的时候,总司问:“阿婆,那只黑猫在外面吗?”
婆子出去一看,不可思议的是,梅树下面同样的地方,那只黑猫已经趴在那里。但是,正在那个时候,总司已经起身准备出来。看见这幅情形,婆子想了一会儿,说:“猫不在。”
总司顿了一下,说:“哦?是吗?”他暂时缓了一口气,“阿婆,那只猫在对我作法施恶呢。我刚才明明看到它了。”
婆子更觉得不可思议。猫仍然趴在老地方。这次,婆子只好说:“它已经来了。”
“是吗?”总司说,“仍然在那个地方吗?阿婆,这次我要让你看到我杀了那只猫。给我一碗水吧。”
总司站在客舍的门口,婆子端上一碗水。总司咕嘟咕嘟地喝下水,神色肃穆,眼睛紧盯着猫。同时,那只黑猫也斜着眼睛看着总司。总司的脸上血色尽失,脸颊时不时微微抽搐。他弯腰曲背悄悄接近黑猫。今天,这只黑猫仍然在总司接近它还有两尺远的地方,轻盈地跳起逃向一边,盯着总司的眼睛看着。
就这样,20分钟过去了。
“啊!阿婆!我杀不了它!我杀不了它了!”总司悲哀地叫了一声,踉跄几步走回客舍,一进门就倒在床上。
婆子马上通报平五郎。平五郎大吃一惊,跑去把医生叫来看诊。总司说他曾经梦见过这只黑猫。
次日中午刚过,总司闭着眼睛问:“阿婆,那只黑猫来了吗?”
这是总司说过的最后一句话。说完,他呼出了最后一口气。
总司的墓地在麻布樱田町的冲田家的菩提寺--专称寺。当时,为了遮掩官方的耳目,石碑表面刻的是贤光院仁誉明道居士,侧面刻着小字:冲田宗次郎。宗次郎是冲田小时候用过的名字。
这些事情,是服侍过总司的婆子后来对冲田林太郎夫妇说的。应该是真实可靠的。
总司的爱刀——菊一文字则宗
菊一文字:传说刀身泛光,杀人不见血
太刀,刃长7848CM,锋刃极长,刀身细且薄,刀柄上刻有16瓣菊花。16瓣菊花是鬼子皇室的象征。后鸟羽院时期备前国刀匠则宗所作,一文字派的代表作品,号称一文字派的第一名刀,因为刀柄上的菊花,被命名为“菊一文字”。传说后来为新撰组剑士冲田总司所有
冲田 総司(おきた そうじ、天保13年6月1日(1842年7月8日) - 庆応4年5月30日(1868年7月19日))は、江戸时代后期、幕末の新选组の队士。局长助勤、一番队组长、撃剣师范。生年は天保15年(1844年)说もある。讳は春政、后に房良に。幼名は宗次郎。
父は陆奥白河藩士の冲田胜次郎で长男。2人の姉がおり、冲田家は姉のみつが婿の林太郎を迎えて相続させる。
生涯
江戸、白河藩屋敷(东京都港区)で生まれる。父の胜次郎は4歳のときに死去し、母とも死别したとされる。9歳顷に、江戸市谷に天然理心流の道场を开く近藤周三の内弟子となり、试卫馆にて后に新选组结成の中核となる近藤勇、土方歳三らと同门になる。若くして天然理心流塾头を务める。冲田は无类の天才剣士であったと言われるが、江戸の顷の教え方はかなり荒っぽいものであったらしい。后年になると穏やかな教え方へと変化した。
文久三年(1863年)の浪士组结成に参加して上洛、分裂后は近藤らに従い残留し、新选组を结成する。冲田の一番队は常に重要な任务をこなし、剣豪ひしめく新选组の中でも一、二を争う程多くの人を斩ったと言われ、この时期では9月の芹沢鸭暗杀、内山彦次郎暗杀など手がけた。
冲田が人を斩ったことを记す初めての记录は文久三年3月24日の夜。清河八郎の呼びかけに集まった浪士组の一番队の殿内义雄だった。
元治元年(1864年)6月5日の池田屋事件で、讨幕派数人を切り伏せ活跃したものの、直后に肺结核により喀血して倒れる(诸说あり)とされていたが、その后の新选组史において依然として活跃していることから、この日に肺结核が発症したとは考えにくい。
庆応元年(1865年)2月、総长の山南敬助が脱走した事件では、追っ手として差し向けられ近江草津で捕らえる。山南は冲田の介错で切腹した。冲田は山南を兄のように慕っていたとされるが、故郷への手纸では山南の死に関して軽く触れるに留められている。
病が进行して第一线で活跃することがなくなるのは庆応三年(1867年)以降で、鸟羽伏见の戦いは参戦できず大坂に护送される。鸟羽伏见の败戦后、队士と共に海路江戸へ戻り、甲阳镇抚队に参加する(诸说あり)も中途での落伍を余仪なくされる。以后は幕臣の松本良顺により千駄ヶ谷の植木屋に匿われたとされ、庆応四年(1868年)に死去。生年が明确で无いため享年については诸说あり、25~27と考えられている。
庆応三年12月18日、冲田が疗养のため滞在していた近藤の妾宅を、元御陵卫士・阿部十郎、佐原太郎、内海次郎の3人が袭撃した。前月に彼らの指导的立场であった伊东甲子太郎を杀害した新选组への报复として狙われたものだが、冲田は伏见奉行所へと出立した后で难を逃れた。同日夕刻、阿部らは二条城から戻る途中の近藤勇を铳撃、负伤させている。
近藤勇斩首から2ヶ月后、近藤勇の死も知らずに亡くなった。 辞世の句は「动かねば暗にへだつや花と水」とされる。墓所は、东京都港区元麻布三、専称寺ほか。専称寺による戒名は「贤光院仁誉明道居士」。また、冲田家累代墓碑には天然理心流の他、北辰一刀流の免许皆伝を得ていた旨も记されている。
なお、没时年齢については冲田家累代墓碑の24歳、冲田家文书の25歳、『両雄士伝』(小岛鹿之助)における上洛时の年齢(22歳)から计算した27歳の3说が存在する。また、终焉地も千駄ヶ谷のほか、今戸(台东区)说もある。
[编集] 人物像
佐久间象山の息子三浦启之助がある队士にからかわれた。后日、土方と冲田が碁を打っている侧で三浦がからかった队士を背后から斩りつけると、冲田は三浦が后ろから斩りつけた卑怯さに激怒し「この马鹿野郎」と叫び三浦の襟首を引っつかんで头を畳に押し付け引きずり回し、三浦は鼻の皮を真っ赤にすりむいたという话が伝わっている。
凄腕の一番组长としての颜とは裏腹に、当の本人はいつも冗谈を言っては笑っていた阳気な人物であったようだ。屯所界隈の子供达ともよく游んであげていたようで、作家の司马辽太郎は新选组を题材とした作品を执笔する际、幼い顷に冲田に游んでもらったという老婆を取材している(取材が1960年前后とすると、明治维新が1868年なので、かなり高齢ではあるものの実际の冲田総司を目にした人々が生きていたのである)。
近藤・土方など新选组についての酷评で知られる西村兼文ですら、山南と并び冲田についても批判を残していない。これは西村が山南と冲田には悪意を持っていなかったことの表われと见られ、従って冲田は新选组に表立って敌対した者以外には人当たりの良い好人物であったと考えられている。
死の际には、植木屋の庭に现れる黒猫を斩ろうとして几度となく失败し、己の衰えを痛感した冲田は「ああ、斩れない。婆さん(付添いの老婆)、俺は斩れないよ」と叹いていたという(ただし、この话は子母沢寛による创作であると言われる)。
死の间际まで「(近藤)先生はどうされたのでしょうね、お便りは来ませんか?」と、师を気遣う言叶を几度となく口にしたとも伝えられている。近藤の死に関して周囲の者は固く口止めされていたため、冲田は近藤の死を知らずに逝ったわけである。これに先立って、甲阳镇抚队が出阵する际に近藤が冲田を见舞うと、普段は明るい冲田がこのときだけは声を上げて泣いたという。
一般に近藤、土方、冲田の三人が非常に亲しく、特に土方と冲田は兄弟のような関系であったと思われているが、これも司马辽太郎、子母泽寛の创作によるところが多い。土方と冲田が特别亲しかったことを示す资料自体は存在しないが、冲田が土方の手纸の执笔代理をした记录が残っている。小说や文献には腕を组んで歩いていたとか、土方の游楽にはよく连添われたとかいう伝说や记述も见受けられるが、実际には冲田と土方は特别亲密であったわけではないらしい。腕を组んでいたというのも夸张で、実际には屯所の周りを数人で散歩していた队士のなかにたまたま土方と冲田が混ざっていた程度のことらしく、仕事以外では二人で行动を共にすることは少なかったようで、二人の仲は悪くはないが特别良くもなく、肉亲のように固い绊で结ばれているようなことは无かったようである。 しかし、师である近藤勇とは师弟関系の绊が相当强かったようで、试卫馆时代から父亲のように慕っていたと伝わっている。新选组结成以降も近藤には最も忠义を尽くし、自分の死の间际にまで近藤の安否を心配し続けていたのである。
近藤との师弟関系の强さを表すエピソードとして、ある人から「なぜ、人を斩るのか」と问われた冲田が「近藤先生が斩れと仰ったからです」と答えた、とする话が诸书に见られる(但し、件のエピソードの出典は不明)。一方、阿部十郎の言として「近藤の高弟の冲田総司、大石锹次郎という者はまことに残酷な人间でございまして、もとより国家朝廷のあるを知らぬようなもので」(『史谈会速记录』)と、冈田以蔵などと同様に思想的背景を持たない“人杀しの道具”として非难する声もある。しかしながら阿部らは新选组と敌対し彼らを憎む立场であったためいささか行き过ぎた批判であることは否めず、一般的には冲田は师である近藤に忠実だったか、または単に任务に忠実な队士だったと考えられている。
[编集] 剣技
冲田の剣技で有名なのが「三段突き」である。天然理心流の平正眼の构えから踏み込みの足音が一度しか鸣らないのに、その间に3発の突きを缲り出したという。目にも止まらぬ速さで、相手は一突きもらったと思った瞬间、既に三度突かれていたということである(その后会得した者が居ない为、真相は不明)。加え、人间の身体能力では不可能とする意见もある。
『新选组遗闻』における佐藤宣の谈话によれば、冲田の剣术の形は师匠の近藤そっくりで、挂け声までがよく似た细い甲高い声であったという。ただ、太刀先がやや下がり気味で前のめりの、近藤(腹を少し突き出し気味の平正眼)とやや异なる构えを取る癖があったとされる。
冲田の剣については、永仓新八が「土方歳三、井上源三郎、藤堂平助、山南敬助などが竹刀を持っては子ども扱いされた。恐らく本気で立ち合ったら师匠の近藤もやられるだろうと皆が言っていた」(『永仓新八遗谈』)と语ったことが知られているが、新选组内部以外からの声もある。小岛鹿之助は新选组结成前(文久2年(1862年)7月)に「この人剣术は、晩年必ず名人に至るべき人なり」(『小岛日记』)と述べているし、新选组に批判的な西村兼文は「近藤秘蔵の部下にして、队中第一等の剣客なり」「天才的剣法者」(『壬生浪士始末记』)と言い、さらに新选组と敌対した阿部十郎は「冲田総司、是がマァ、近藤の一弟子でなかなか能くつかいました」「冲田総司、大石锹次郎という若者は、ただ腕が利くだけで、剣术などはよくつかいました」「大石锹次郎、冲田総司、井上、是らは无暗に人を斩杀致しますので」(『史谈会速记录』)など、殊に敌に回した场合に笔头の胁威となる剣客であったことが伺える。ちなみに千叶弥一郎(新徴组队士で、冲田の义兄と同僚)の言叶に「われわれからみたらやっと目录(低い段位)くらいの腕前」と、唯一の否定的见解が见られる。
[编集] 冲田の刀
小说などにおいて、冲田総司の所有する刀として「菊一文字则宗」の名が挙げられる。これは子母泽寛などの伝记により「冲田の刀は“菊一文字细身のつくり”」とされていたことから司马辽太郎が著作『新撰组血风录』の中で创作した物语が広まったものである。しかし则宗作の刀は、日本刀が常用されていた当时でさえ非常に贵重な古刀であり、経済的にも実戦で多用する必要性からも冲田が所有した可能性はほとんど无いと推察され、研究者の间で取り上げられることはまず无い。现在では冲田が所有した実际の刀は、一般に「加州清光」とされている。あるいは、则宗以外にも几つか存在した“菊に一”の纹を打った细身の刀の1つではないかとする说もある。いずれにせよ他の队士と同様、在京中に何度か刀を交换した可能性も高い。
[编集] 美少年
作家司马辽太郎の作品以降、冲田は小说・ドラマなど创作世界においては频繁に美少年として描かれてきた。 冲田の容貌に関して、现在残っている冲田の肖像画は、冲田の姉のミツが孙、要氏を「総司に似ている」と称したことから、昭和4年に书かれたものである。 八木家の者や新选组に関わった人物の证言では、「美少年であった」とは书き残してはおらず、容姿に関する记述としては、「ヒラメ颜で色黒」、「肩の张り上がった」、「猫背」「长身」と书かれたものが残っている。(『竜马におまかせ!』『月明星稀 - さよなら新选组』ではこの说に近い设定となっている。) この记述から浮かび上がる人物像として、美少年说に疑义を唱える指摘もある。 冲田が美少年であるというイメージは、剣技の强さが伝承されながら労咳により夭逝してしまうというドラマ性に富むその生涯から、そのドラマ性をさらに演出する要素として冲田を美少年として描いた司马辽太郎の小说『燃えよ剣』をはじめ、その流れをくんだ『幕末纯情伝』(美少女として描かれている)など多数の作品において“剣にめっぽう强い上に明るい性格、その反面、病弱で色白の美少年”として演出されたイメージが一般的に定着した结果の误解とも思われる。 また、多数の映画など映像メディアにおいても常に若手二枚目俳优の役どころであった影响も大きいと考えられる。 しかし「総司=ヒラメ颜」说は、佐藤彦五郎のひ孙が、テレビで谷春雄の话に軽くノってつい口走ってしまったのが始まりらしいのだが、谷は「総司がヒラメ颜」というのは“のっぺらぼうという意味ではなくて、一族や兄弟の写真がみな目の间隔が寄っているから”と话している。
容貌・写真などについては、本项外部リンク先も参照のこと。
[编集] 冲田総司の恋
创作の世界で冲田は、司马辽太郎の小说以降、一般に纯情な青年として描かれることが多かった。町医者の娘とプラトニックな恋爱をするなどの描き方がほとんどで、実际に冲田の周囲では近藤や土方などのように花柳界の女性の影は见えない。ただ、壬生光縁寺には过去帐に「冲田氏縁者」と书かれた女性の记录があり、これが冲田の恋人ではないかとも言われている。研究者によるとこの女性は石井秩という未亡人で、连れ子(娘)が1人居たという。冲田はこの女性との间に1女をもうけたという话もあるが、决め手に欠けるとも言われる。なお、新选组にはもう一人「冲田承之进」(庆応元年4月、土方らが江戸で募集した队士の1人)という冲田姓の队士が居り、过去帐の「冲田氏」は承之进の方では无いか、との说もある。
[编集] 発病时期
冲田総司といえば、创作作品において必ずといって良いほど池田屋での戦闘中に激しく喀血し、倒れこむ。しかし现在は上述のとおり、研究者の间ではこの说は取られていない。同事件で冲田が喀血したと明记するのは『新选组始末记』(子母泽寛)のみで、冲田は事后の长州残党狩り(明保野亭事件参照)にも参加しているし、翌月の禁门の変にも近藤・土方・武田・永仓と共に出动していた记录(『甲子戦争记』西村兼文)があり、喀血するほど労咳が进行していたら、无理を强いて出动させるとは思えないのがその理由である。
一方、庆応2年(1866年)顷、幕府典医松本良顺が新选组を集団検诊した际に「肺结核の者が1名居た」と记しており、これが冲田総司ではないかとする说もある。庆応3年(1867年)には明らかに周囲が认识し得るほど発病していた模様で、2月顷罹病したとする『両雄実录』(小岛鹿之助)、不动堂村へ屯所を移転した9月顷に大病を患ったとする『壬生浪士始末记』(西村兼文)、さらに10月13日付で小岛鹿之助が近藤へ送った书简にも冲田の异常を気遣う文面が见られる。以上から、冲田が戦闘に耐えがたいほど重笃な状态に陥ったのは、庆応3年秋~冬顷であったと思われる。
なお、『新选组始末记』をはじめとする池田屋喀血・昏倒シーンの元となったのは永仓新八の『新选组颠末记』と考えられるが、こちらには吐血・喀血の文字こそ见られないものの冲田が昏倒したことが记されており、初夏の蒸し暑い异常な高温下での激しい戦闘によって一时的に軽度の热中症を起こした等、少なくとも近藤や永仓など周囲の者には肺のほうの异常は感じさせない状态であったと考えられている。
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